徴用朝鮮人「この高齢でお金はいらないし補償もいらない」「日本人から差別も暴力もなく親切だった」
人気ブログランキングに参加しています。
まずはここをポチッとお願いします。
————————–
韓国元徴用工の肉声 本当に金による解決を望んでいるのか
12月下旬、1年3か月ぶりの日韓首脳会談が実現しようとしている。そこで焦点となるのが徴用工問題だ。ジャーナリストの赤石晋一郎氏が現地取材で得た証言とは──。
ソウル市の郊外、城南市で待ち合わせした老人は、独りで暮らす自宅で取材に応じてくれた。
「日本人のほうが韓国人より、いい人が多かったと私は考えています。私が炭鉱で働いていた時代、日本人にはとても親切にされた思い出があります」
こう語る崔漢永氏(91)は、徴用工として日本で働いた経験を振り返り、「私は日本人が好きでした」と語った──。
昨年末に元徴用工が日本企業を訴えた裁判で、韓国大法院(最高裁)は日本製鉄(元・新日鉄住金)、三菱重工に対して、相次いで賠償を命じる判決を下した。同判決を契機に韓国内では徴用工問題は“奴隷労働”の歴史だったという議論が沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで建設される事態となった。
そうした状況の解決を目指し、11月末に文喜相・国会議長が「記憶・和解・未来財団」の設立を提唱した。「この文議長案は日韓企業と個人による自発的寄付金をベースとして財団を設立するというものでしたが、元徴用工に高額な慰謝料を支払うという方針をめぐっては、異論の声も出ている」(ソウル特派員)
しかし、果たして当事者である元徴用工たちは、本当に金による解決を望んでいるのだろうか。
冒頭の崔漢永氏が日本に渡ったのは15歳の時だったという。
「私は自分の意志で日本に行きました。当時、父親が傷害事件を起こして逮捕され、罰として日本での強制労働を命じられた。しかし父を失うと9人の大家族なので困る。そこで私が代理として『日本に行く』と手を上げました。年齢も18歳と偽りました。
日本での働き先は、福岡県飯塚市にある三菱炭鉱でした。炭鉱には私以外にも何百人もの動員された朝鮮人がいました」(崔氏)
「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。
特に私は15歳と若かったこともあり、上司のサキヤマさん(日本人)に大変可愛がられた。『私の娘と結婚しないか?』と言われたこともありました」(同前)
崔氏は日本人に悪感情はないという。私が「徴用工に慰謝料は必要だと思うか?」と問うと、崔氏はこう語った。
「(元徴用工が)裁判を起こしても何も得られるものはないよ。この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」
そのハッキリとした物言いは、慰謝料ありきで徴用工問題を語る文在寅政権に、静かに異を唱えているようにも思えた。
同じように差別はなかったと語るのは金炳鐵氏(96)だ。金氏は20歳のときに地元・麗水郡庁からの徴用命令を受けた。行き先は佐賀県だった。
「私が派遣されたのは佐賀県西松浦郡のウラサキ造船所でした。私は資材課に属し、工場内で出る屑鉄を集める仕事をしていました。集めた屑鉄は、鉄工場に輸送され再び製鉄されるのです。造船所で働く2000人のうち、700人が朝鮮人でした。朝9時から4~5時頃まで働き、日曜日ごとに休みはありました」
ウラサキ造船所とは、当時、佐賀県に存在した川南工業の浦崎造船所だと思われる。軍需工場だった浦崎造船所では二等輸送艦や人間魚雷「海龍」などが大量建造されていた。
戦争末期ということもあり、食料事情は日本全体で厳しかったと語る。
「そこはおかずが良くて、よく美味しいブリとかトビウオが1~2匹出た。でも原則はお米と麦を混ぜたご飯を一杯しか食べられない。だからお腹が減る。あるとき、ご飯を盗み出して山中で食べた。そのことがバレて、日本人管理者に殴られたこともありました。でも、(ルールを破ったので)たいしたことではないと思っています。基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」
金氏の証言もまた、韓国内で語られている“被害者像”とは異なるものだった。
「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。そのときは(植民地時代なので)日本人の命令が全てですから、言う通りにするしかなかった。徴用工時代がいい思い出とはいえませんが、学校で日本語を勉強していたので日本語で職員と話を出来たのは良かったですね。ただ鹿児島や宮崎県の人だけは方言がきつくて、何言っているかわからなかったですけど(笑)」
派遣された場所によって労働環境や実情が違うと感じさせられるのが、姜彩九氏(92)と孫義奉氏(91)のケースだ。同郷だった二人は10代の頃に徴用命令を受けて、ともに大阪のクボタ鉄工所に送られた。
「500人ほどの朝鮮人がクボタ鉄工所に送られていました。日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。クボタでの仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」(孫氏)
1945年に米軍による本土爆撃が本格化、ますます仕事どころではなくなったという。姜氏が苦笑いしながら回想する。
「空襲が酷くなってからは、工員は散り散りとなり、私は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた。だから大法院判決で元徴用工に対して慰謝料1億ウォンの支払い命令が出たと聞くと、私はその金額をもらえるほどの仕事を日本ではしていないと思ってしまうよ。補償はして欲しいけど、(高額な慰謝料の話を聞くと)私たちがお金を吸い取る掃除機みたいだと思われてしまうね(笑)」
元徴用工の口からは、全ての人が“奴隷労働”に苦しんでいた訳ではないという事実が語られた。歪んだ歴史論争のなかで当事者たちの声はかき消されている。
(令和元年12月14日 NEWSポストセブン)
https://www.news-postseven.com/archives/20191213_1505139.html
————————–
徴用工の朝鮮人が口を開いた。
「日本人にはとても親切にされた」
「日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった」
「この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」
「基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」
「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません」
「日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね」
「大法院判決で元徴用工に対して慰謝料1億ウォンの支払い命令が出たと聞くと、私はその金額をもらえるほどの仕事を日本ではしていないと思ってしまうよ」
こういう事実は正しい歴史を知っている人には常識であり、間違った歴史認識の反日左翼にとっては困る発言である。
だからこういう発言は絶対に反日テレビでは報じない。
朝鮮人徴用工とは、1944年9月から1945年3月に動員された朝鮮人をいう。それ以前は「官斡旋」、または「募集」で日本に働きに来ていた朝鮮人である。
バ韓国で賠償を求めていた朝鮮人は「徴用工」ではなく「募集」で日本に稼ぎに来ていた労働者である。
だから彼らを「徴用工」とは呼んではいけないのに、反日マスコミは今も「徴用工」にしている。
「徴用工」問題は「慰安婦」問題と同じで、日本からお金を奪い取るためのつくり話であることは良識ある日本人は知っている。
だからバ韓国大法院の賠償命令やバ韓国議長の「記憶・和解・未来財団」で日本企業にもお金を出せと言うのは完全に”たかり”である。
こうなるのは慰安婦で日本政府が払う必要のないお金を払ったり、謝罪してきたから悪いのだ。
朝鮮人は一度甘やかすとどんどんつけ上がる生き物である。
こういう生き物には絶対に甘い顔をしたり、お金を与えてはいけない。
悪いことをしたら徹底的に叱りつけ、時には絶対的な力で押さえつけることが必要である。
朝鮮人の扱いは宗主国シナの扱い方を見習うべきである。
・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
嘘は必ずバレる、と思った方はここをポチッとお願いします。
Source: 日本人よ誇りを持とう
「生活」カテゴリーの関連記事