シベリア抑留帰還者「ロシアのウクライナ侵攻は卑劣なやり方、許せない」
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「卑劣なやり方、許せない」シベリア抑留帰還者 95歳の庄子英吾さん ウクライナ侵攻に
ロシア軍のウクライナ侵攻という〝蛮行〟をめぐっては、日本も77年前に同じような暴挙を経験している。
ロシア前身国の旧ソ連は昭和20年夏、武装解除した旧満州国の将兵らをシベリアなどに連行し、約6万人が息絶えた。
仙台市太白区の庄子英吾さん(95)も抑留された1人。今回のウクライナ侵攻で庄子さんは戦友の命を奪ったソ連の行為が思い起こされ、怒りで唇をかみしめる。
「何ら話し合いもなく、突然武力を持ち込むことは論外だ。プーチン露大統領は正気の沙汰ではないのではないか」
市民への無差別攻撃もためらわないロシア軍の無法行為と、シベリア抑留が重なるからだ。
「武器を捨て、丸腰になった者を帰国させるとだまして抑留し、悲劇を起こした。卑劣といえるやり方は断じて許せない」
庄子さんは仙台市出身。昭和19年12月、下関港(下関市)から朝鮮半島経由で満州に渡った。満州国陸軍軍官学校で勉学と武道にいそしむ生活は20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破って一変した。
庄子さんも爆弾を背負い戦車に向かう自爆訓練を重ねた。戦車砲も戦車もない。ソ連軍に対峙するには肉弾戦しかなかった。
8月15日、ラジオで玉音放送が流れた。終戦を知り、周りも自分も茫然自失、涙を流した。自殺を図った者は区隊長に諭され、思いとどまった。
ソ連軍の指揮のもと武装を解除した。日本が受諾し、ソ連も参加したポツダム宣言は武装解除した日本の将兵は各自の家庭に復帰させると規定している。庄子さんも復員し、再起を期すと誓った。
庄子さんらは帰国のためとされた貨車に乗り、満州国の新京(現・長春)を後にした。ソ連兵も「トウキョウ、ダモイ(帰国)」とジェスチャーを交え、語りかけた。捕虜になるなど考えず、防寒対策も十分ではなかった。
満州を北上し、黒竜江を渡り、夜に対岸のソ連のブラゴエ駅に到着。鉄道はこの先、分岐している。東に進めば極東ウラジオストク、西に進めばモスクワ。貨車は東の方角の太陽に向かうか、どうか─。
翌朝、貨車は太陽を背に走っていた。
「だまされた!」
同年10月、行きついた先はシベリアど真ん中の炭鉱の町、ブカチャーチャー。ロシア語の呼び名は「悪魔の棲む所」。足元の水たまりは氷が張っていた。
庄子さんらは森林伐採から鉄道敷設、石炭の貨車積み込みに従事した。零下40~50度になる極寒での作業は鼻が凍傷になっても、まひして気が付かない。手遅れになり指を切断した戦友も数多かった。
食事も少量の大豆スープとわずかな黒パンのみ。育ち盛りの若者にはあまりに少なく、庄子さんも骨と皮の見た目になっていた。
さらにシラミが苦しめた。みなが着替えの服はなく、シラミが大量発生し、発疹チフスを媒介した。ある者は高熱で意識がもうろうとし、部屋を徘徊する。ある者は「船が来た。国に帰る」と叫び、戸外に出て凍死した。大勢の戦友が両親や妻子の名前を呼びながら倒れた。
庄子さんもチフスで1週間以上意識を失った。回復後の仕事は戦友の遺体を大八車に載せ、2、3キロ離れた落葉松が立つ「墓地」に運び、埋葬することだった。棺おけはなく、遺体はテント張りの小屋に安置される。カチコチに凍った遺体は何度も車から滑り落ちては、拾い上げた。
23年9月、飢えと寒さに苦しんだ庄子さんらは帰国を果たす。入ソ当時、約200人いた同期生は83人が亡くなった。旧友と平成初頭、遺骨調査団を結成し、シベリアに渡った。落葉松が立つ墓地から戦友の遺骨を収集、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田区)に埋葬した。
庄子さんは長い間、抑留体験を家族にも封印していたが、平成20年代半ばから講演を行い、戦争体験を文書でまとめている。シベリア抑留の事実が学校でろくに教えられていないと知ったからだ。
「俺は帰国の際、必ず迎えに来るからと約束した。その約束を果たすために遺骨収集に参加して遺骨を千鳥ケ淵墓苑に合祀した。これらの英霊に95歳まで生かされたと思っている。だから死ぬまで語り続け、書き続ける覚悟だ」
体の調子を崩し、しゃべることもかなわなくなったが、それでも無理を押し、ひらがなの五十音表に指さしながら取材に応じる。
戦争には反対だ。だが、祖国を守る気概を持つべきだ。庄子さんは若者たちにこう思いを託す。
「望むならば、殴られたら、殴り返す。この気迫だけは持ってほしい。それに耐え得る体力と力を養ってほしい」
(令和4年3月27日 産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20220327-X7ZZ4AR36VJL7PMQJQQ6JBSUB4/
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朝鮮人は今も昔もその民族性は変わらない。ロスケも同じである。
以前、今は亡き、満州特務機関にいた門脇朝秀先生の自宅に行き、102歳という高齢でありながら1時間のつもりが4時間も話し込んだ。
「この場で死んでもいいから伝えたいんだ」と言って話し続ける門脇先生。
その気力と精神力と記憶力に驚いた(下画像)。
ロシア語もシナ語も出来る門脇先生は、終戦で旅順・大連占領のソ連軍厳戒包囲網を突破して在留邦人25万人の帰還に尽力し、自身も昭和22年に帰国された。
その時に聞いたロシア人の蛮行を思い出す上の記事であるが、ここにはないが婦女に対する強姦もひどかったことを聞いた。
スターリンは慰安所をつくらず、女は現地の褒美として好きに犯してもいいことになっていた。
歴史は繰り返すと言う。
ロシア、シナ、朝鮮は日本の敵国であることを理解しないと、後でとんでもない目に遭う。
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Source: 日本人よ誇りを持とう
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