日本人として、戦後日本は恥ずかしい
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中国、新たなガス田試掘か 東シナ海、首相「遺憾だ」
外務省は20日、東シナ海の日中中間線の中国側海域で、中国が新たな構造物1基の設置を進めていることを確認したと発表した。ガス田の試掘とみられる。
岸田文雄首相は21日、「中国が一方的に開発を進めることは極めて遺憾で、日本としては認めることができない」と述べた。視察先の京都市で記者団の質問に答えた。
外務省の船越健裕アジア大洋州局長は20日、在日中国大使館の楊宇次席公使に対し「極めて遺憾だ」と抗議した。
(令和4年5月21日 共同通信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/aae0427d6d1c6fc9fb7bbfd0cc09a5abffca0454
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東シナ海ガス田開発は日本とシナで共同で開発することになっているが、またシナが勝手に構造物をつくっていた。
シナはどうせ日本は「遺憾」しか言えないと知っている。
すると岸田首相は「極めて遺憾」と言い、外務省も「極めて遺憾だ」と言った。
予想通りであった。
「遺憾」と言って何かをするならいいが、日本は言って終わりである。
これが日本の現状である。
戦前の日本を評価していたアジアの人は多くいた。
フィリピンのデュラン博士は、戦後、渡辺はま子にモンテンルパ刑務所の苦悩を語り、それが日本兵達の救出につながった。
デュラン博士と親交があった金ケ江清太郎氏は『フィリピン物語』で、デュラン博士について書いていた。
「デュラン氏が、アメリカ統治下にあった当時のフィリピンで堂々と“日比同盟論”を主張する勇気と信念には私も感服したものだった。
デュラン氏が学者としての立場から、あらゆる関係の文書を研究していくうちに、日本の歴史と國體を知り、そして日本民族に心を惹かれ、ことに氏の魂を強く打ったものが日本古来の武士道の精神であったらしい。
しかも主君に仕えた武士達の、烈々たる自己犠牲の忠誠心と、義を第一とする五常の道は、おそらくデュラン氏には驚異であったに違いない。
戦後は対日協力者としてモンテンルパ刑務所に監禁されていたが、この人について今も忘れられない、ひとつの思い出がある。
それはモンテンルパから釈放された氏が、郷里から出馬して下院議員となり、戦後間もなく二番目の新夫人を同伴して来日したことがある。
その時、日本にはフィリピン大使館がなくて、フィリピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏は私の顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。
『ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、一体どこへ消えてしまったのかね?』
君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裏にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱の中で混迷している日本の姿に接して、はかなくも音を立てて崩れ去ったものらしかった。
その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。
デュラン氏はかねてから新夫人に向かって『日本ほど素晴らしい国はない』と口をきわめて礼賛し、我がことのように自慢していたという。
『日本の善良な国民は、天皇陛下を敬うこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かって最敬礼するし、また日曜日には、フィリピン人が教会へお詣りするように、日本の国民は朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこにひざまずいて両陛下を遙拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本より他にはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか』
ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで『お前は三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。私はこれから二重橋へ行って、両陛下を遙拝してくるから』
そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が二重橋まで来てみると、ひざまずいて遙拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで楽しそうに散歩している意外な光景が眼に映り、まるでマニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、
『ここが日本の二重橋か・・・』と、思わず口走ったのである。
日本人である私でさえも、終戦を転機に、180度転換した母国の激しい変貌には、すっかり戸惑ってしまったくらいだから、忠君愛国の心酔者だったデュラン氏が、愕きそして失望したのも無理からぬことだったろう。
デュラン氏は、名状しがたい気持ちで宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを聞きながら『ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ』と、こぼしたことがあった。
それでもデュラン氏の日本びいきは変わることなく、その後もたびたび来日して、日本商社となにか共同事業を計画しているようだった。
新しい製品の開発に努力していたが、糖尿病が持病だったデュラン氏は事業の成功を見ずに他界したのである」
戦後日本は今も同じである。
日本人として、デュラン氏にお詫びしたい。
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Source: 日本人よ誇りを持とう
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