昭和節 昭和天皇の涙
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4月29日、「昭和の日」は昭和天皇のお誕生日であるので「昭和節」すべきである。
昭和20年8月の終戦後、日本は未曽有の食糧危機となった。
物価も高騰し、食糧の配給制度も全く足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並んだ。
それまで東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、茫然とし退廃と恐怖と上が人々を支配していた。
その日本人が、ある事をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。
それが昭和天皇の全国御巡幸だった。
昭和天皇の御巡幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足掛け8年半にかけて行われた。全行程は3万3000キロ、総日数は165日。
この御巡幸を始めるにあたり、陛下はこのように述べられた。
「この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う」
そして昭和24年5月、九州御巡幸でのこと。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に御巡幸された。
このお寺には「洗心寮」という引き揚げ孤児の寮があった。
孤児達には、あらかじめ陛下がお越しになられたら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてあった。
ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人ちゃんと挨拶しようとしない。昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、茫然と黙って立っている。
すると陛下が子供達に会釈なさった。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられた。
そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。
「どこから?」
「満洲から帰りました」「北朝鮮から帰りました」
すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、「おいくつ」
「七つです」「五つです」と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりに、まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、「立派にね、元気にね」とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められている。
この「立派にね、元気にね」の言葉には「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派な日本人として育ててもらっていることは、たいへんよかったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められている。
そしてそのお心が、短い言葉で全部子供達の胸に入っていく。
陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声が出る。
すると子供達の声を聞いた陛下が次の部屋の前から、今さようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさを一杯にたたえたお顔でご挨拶なされた。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられ、この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢を取られ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられた。
それまでは、どのお部屋でも満面の笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、厳しいお顔をなされた。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせた。
重苦しい時間が流れる。
ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた女の子に近づかれた。
そして静かなお声で引き込まれるように「お父さん。お母さん」とお尋ねになった。
そこには、女の子の手には二つの位牌が胸に抱きしめられていた。
陛下はその二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになられた。
女の子が答える。「はい、これは父と母の位牌です」
陛下は大きくうなずかれ「どこで?」とお尋ねになる。
「はい、父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中で病のために亡くなりました」
女の子はよどむことなく答えた。
すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、一人で満洲から帰ったのか、という意味でしょう。
「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさん達が親切にして下さいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えに来てくださいました」
この子が、そう答えている間、陛下はじっと頷かれた。
そしてこのこの言葉が終ると、陛下は「お淋しい」とお言葉をかけられた。
するとこの子は口元を引き締め、
「いいえ、さびしいことはありません。私は仏の子ですから」
陛下は少し驚いて女のこの目を見つめたが、女の子はひるまずに続けた。
「仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。お父さんに会いたいと思う時、お母さんに会いたいと思う時、私は御仏様の前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやって来て、私を抱いてくれます。だから私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」
こう申し上げた時、陛下はじっとこの子をご覧になっておられた。
この子も、じっと陛下を見上げていた。
陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられた。
部屋に入れられた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっと撫でになられた。
そして陛下は、「仏の子はお幸せね。これからも立派に育って下さいね」とお言葉をかけられた。
その時、陛下のお目から、ハタハタと大粒の涙が一つ、二つ、おめがねを通して畳の上にこぼれ落ちた。
すると、ふいに女の子は、小さな声で「お父さん」と呼んだ。
これを聞いた陛下は、深くお頷きになられた。
その様子を眺めていた周囲の者は、皆、言葉をなくして顔を覆った。
東京から随行してきていた新聞記者も肩をふるわせて泣いていた。
帰路、子供達は陛下を囲み、中には陛下のお洋服の端をしっかり握って離さず「また来てね」と言う子もいた。
皇居にお帰りになられた昭和天皇は、この時のことをこう詠まれました。
みほとけの 教へまもりてすくすくと 生い育つべき子らに幸あれ
この御製は因通寺の梵鐘に刻まれている。
…….
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Source: 日本人よ誇りを持とう
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