終戦直後、日本民族の防波堤となった先人達と戦場のなでしこ
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終戦直後の大事な歴史を知っておきたい。
昭和20年8月15日、日本軍は終戦の詔勅(玉音放送)で停戦と武装解除に応じた。
連合国も停戦に応じたが、一カ国だけ停戦を無視して日本に攻め込んで領土拡大をしていた国があった。
ソ連である。
昭和20年8月16日、スターリンは米国トルーマン大統領に「北海道の北半分を占領させろ」と言ってきた。
その境界線は「釧路と留萌の線」だった。
これに対して8月18日、トルーマン大統領はスターリンの北海道北半分占領の要求を拒否した。
すると同日、ソ連軍は大挙して千島列島の最北端の占守島(シュムシュ島)に上陸してきた。
停戦中の日本軍の堤師団長は戦車第11連隊(池田末男大佐)と歩兵第73旅団に敵撃滅を命じた。
池田連隊長は兵を集めてこう言った。
「諸子はいま赤穂浪士となり恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、白虎隊となり玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとするものは一歩前に、白虎隊たらんとするものは手をあげよ!」
すると将兵達は手をあげて”白虎隊”を選んだ。
停戦していたはずの日本軍の士気はもの凄く高く、攻め込んできたソ連軍を追い落とした。
しかし第五方面軍から「戦闘停止」命令が届き、師団長は完全戦闘停止を命じた。
日本軍600(1018)名、ソ連軍3000(1567)名の死傷者であった。
ソ連は日本軍に樺太で抵抗され、千島の占守島では大損害の苦戦を強いられ、このまま北海道に侵攻しても日本軍の猛反撃でソ連軍の侵攻は無理だと悟った。
スターリンは8月22日にトルーマンに「北海道作戦中止」の返事を書いた。
今ある北海道は先人達が戦って守ったのだった。
するとスターリンは8月23日、秘密通達を出した。
「日本軍捕虜将兵50万人をソ連各地の作業現場に移送せよ。強制労働に耐えられる捕虜50万人を選別し、捕虜を1000人ずつ編成する。捕虜の被覆や寝具は戦利品から調達する」
つまり北海道占領を断念した代わりに、捕虜を強制連行して抑留したのだ。
この時、捕虜だった軍人のみならず、技術や通訳の軍属、満鉄職員、従軍看護婦など女性5000人も連行して、女性はすべてソ連軍の凌辱の対象となった。
ソ連は「ハーグ陸戦法規」や「ジュネーブ条約」の捕虜の扱いを無視して、捕虜には食糧や医療も不十分な極寒の中、労働者として石炭・石油の採掘、木材伐採、河川・港の整備、鉄道建設、各種工場や農場で酷使した。・・・
昭和21年の春、この時の出来事を日本人は忘れてはいけない。
満洲のソ連軍の陸軍病院から長春第八病院に日本人看護婦3人を1カ月派遣せよとの命令が届いた。
1カ月が過ぎると3名の追加派遣命令が届き、さらに3度目の派遣命令が来た。
6月19日に最初に派遣した看護婦が全身血だらけで戻り「もう派遣してはいけません。看護婦の仕事ではなくソ連軍の慰みものになり、拒めば殺される」と言って息絶えた。
6月21日の朝、22名の看護婦が自決した。
その後、ソ連に犯された看護婦達が長春のダンスホールでダンサーをしていると聞いた婦長が訪ねて「病院に帰るよう」に勧めても首を振るばかりで、堕落したと思った婦長が彼女を叩くと看護婦の女性はこう言った。
「毎晩7、8人のソ連将校に犯されたので梅毒を移されました。看護婦なので病状が悪化していることはわかります。この身体では日本には帰れません。この地に残って一人でも多くのソ連人に性病をうつしてやるつもりです。それがせめてもの復讐です」
彼女達は婦長が日本に引き揚げる時に身売りして費用を稼いでくれた。
昭和31年、埼玉県大宮市に婦長がかの地で逃げ帰って来て亡くなった看護婦と自決した計23名の「青葉地蔵尊」を建てた。
この話は昭和34年、新東宝が「戦場のなでしこ」と題して映画化している。
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Source: 日本人よ誇りを持とう
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